日本語で「お香」と呼ばれているものの中に、バフールという香りは正確には収まらない。
煙を立てる点では似ている。
しかし、その扱われ方も、置かれてきた場所も、日本で親しまれてきた香の文化とは、少し距離がある。
バフールは、香りを楽しむための道具として体系化されてきたものではない。
それは生活の中に置かれ、必要なときに使われ、使い終われば、また元の場所に戻されてきた。
説明されることよりも先に、使われてきた香りだと言っていい。
この頁では、バフールを「異国のお香」として紹介することはしない。
また、特別な香りとして持ち上げることもしない。
ただ、どのように扱われ、どのような前提のもとに存在してきたのか、その輪郭だけを、記しておく。
バフール(Bakhoor)とは何か
バフールという言葉は、特定の香りや素材の名称ではない。
その語源は、アラビア語の bukhūr(بخور) にある。
この言葉はもともと、煙を立て、燻す行為そのものを指して使われてきた。
良い香りを意味する語ではなく、煙を用いて空間や人に香りを移すという、行為の側に重心がある。
動詞形である bakhkhara(بَخَّرَ) は、燻す、香りを移す、場を整えるといった意味を含む。
ここで言う「整える」は、装飾や演出というよりも、状態を変える、前後を区切るといった実用的な感覚に近い。
そのため、バフールは特定の形状や配合を指す言葉ではない。
香木であっても、樹脂であっても、練り香であっても、燻すために用いられる香であれば、バフールと呼ばれてきた。
この点で、バフールは日本語の「お香」とは性質が異なる。
鑑賞や精神性を主眼とする文化の中で体系化されたものではなく、生活の中で必要に応じて用いられてきた、実用的な香の総称である。
語源の段階から、バフールは香りを楽しむ対象ではなく、香りを移すための手段として存在してきた。
その前提を知ることで、この香りが日常の中で使われてきた理由も、自然に見えてくる。
どのように使われてきた香りなのか
バフールは、香りを楽しむために焚かれてきたものではない。
語源が示すとおり、それは煙を用いて香りを移すための、実用的な手段だった。
この使われ方を最も端的に表すなら、バフールは「焚く香水」だと言える。
香水が肌に直接つけられるのに対し、バフールは煙というかたちで、空間や衣服、そして人そのものに香りをまとわせる。
こうした香りの扱い方が生活の中に根付いた背景には、中東という地域性だけでなく、香りや清潔さを肯定的に捉えるイスラム教の価値観がある。
イスラム文化圏では、香りは贅沢や装飾としてではなく、身だしなみや生活を整える要素として扱われてきた。
香水は男女を問わず日常的に用いられ、その延長として、煙によって香りを移すバフールもまた、
自然に生活の中へ組み込まれていった。
家庭では、来客を迎える前に焚かれることが多い。
部屋の空気を整えながら、同時に、そこにいる人々の衣服や髪にも香りを移す。
香りは「場」と「人」を分けず、同時に扱われてきた。
また、入浴後や一日の区切りとして焚かれることもある。
この場合も、目的は演出や気分転換ではない。
香りを身にまとい、次の時間帯へ移行するための、静かな合図として使われる。
バフールの煙は、その場に長く留まらない。
しかし、衣服や布に移った香りは、人の動きとともに、ゆっくりと立ち上がる。
香りを「嗅ぐ」のではなく、香りを「連れて歩く」。
その感覚こそが、焚く香水としてのバフールの本質に近い。
何でできている香なのか
バフールは、単一の素材でできた香ではない。
その多くは、複数の香木・樹脂・香油を組み合わせて作られた混合香である。
配合や比率は、地域や作り手、用途によって異なるが、構成要素にはいくつかの共通点がある。
香木
バフールの骨格となるのが香木である。
ウード(沈香)やサンダルウッド(白檀)など、煙にしたときに重さと深さを持つ木材が用いられる。
香りの持続や、煙の質を左右する部分でもある。
樹脂
ベンゾインやミルラなどの樹脂は、香りに甘みや粘りを与える役割を担う。
煙が立ちやすく、衣服に香りを移しやすいのは、こうした樹脂成分によるところが大きい。
香油
香りの方向性を決めるために、香油(アターや精油)が加えられることも多い。
焚いたときに立ち上がる香りの印象は、この部分に大きく左右される。
結合材
これらの素材をまとめ、形を保つために、蜂蜜や糖分、樹脂のペーストなどが用いられる。
燃やすためではなく、燻すための塊として成形される点が特徴である。
このように、バフールは、単に香りを立てるための素材ではなく、煙の質、香りの移り方、残り方までを考えて作られてきた。
日本で使うときに知っておきたい前提
バフールが扱いづらい香だと感じられる理由の多くは、香りそのものではなく、使われてきた前提の違いにある。
バフールは、乾燥した気候や、煙が生活に組み込まれている環境で日常的に使われてきた香である。
一方、日本の住環境は、気密性が高く、煙に対して敏感だ。
そのため、同じ感覚で焚くと、「香りが強すぎる」「煙が多すぎる」と感じられやすい。
これはバフールが特別に強いからではなく、想定されている空間の大きさと換気の前提が異なるためだ。
また、日本では香りが「静かで、控えめであること」を求められる場面が多い。
その感覚のままバフールに触れると、香りの立ち上がりや煙の量に、驚いてしまうことがある。
本来、バフールは、少量を短時間だけ用いることを前提とした香であり、長く焚き続けるものではない。
焚き終えたあとに、衣服や空間に残る香りまで含めて、ひとつの使い方とされてきた。
日本でバフールを扱う際には、この量・時間・空間の前提を、意識的に小さく調整する必要がある。
その調整ができれば、バフールは決して扱いにくい香ではない。
ただ、日本の生活に合わせて、距離の取り方を変える必要があるだけだ。
バフールとの距離感について
バフールは、香りを見せびらかしたり、その場で嗅がせるための香ではない。
焚いている間に強く香らせることや、空間を香りで満たすことを目的にすると、この香りは途端に扱いづらくなる。
バフールは、香りを纏い、仕込むための香として使われてきた。
煙は主役ではなく、香りを移すための一時的な手段にすぎない。
そのため、量は少なく、時間も短い。
うまく焚こうとする必要も、上手に香らせようとする必要もない。
香りはその場で主張するのではなく、衣服や布、身体に移ったあと、人の動きや体温とともに、静かに立ち上がる。
嗅がせる香りではなく、連れて歩く香り。
その距離感を前提にすると、バフールは生活の中で自然に扱える香になる。
日本でバフールを使う際にも、この姿勢は変わらない。
強く香らせないこと、長く焚かないことは、遠慮ではなく、使い方の前提である。
基本的な焚き方
バフールの焚き方は、複雑ではない。
ただし、日本で扱う場合には、少量・短時間という前提を守る必要がある。
用意するもの
必要なのは、以下の三つだけで十分である。
- 香炭(自己着火タイプで問題ない)
- 耐熱性のある香炉、または金属製の容器
- バフール
特別な道具や、高価な香炉は必要ない。
重要なのは、安全に熱を扱えることだけだ。
焚き方の手順
まず、香炭に火をつける。
火が全体に回り、赤く熾った状態になるまで待つ。
炭が安定したら、米粒より少し大きい程度のバフールを、炭の上に乗せる。
煙が立ち上がったら、それで十分である。
強く香らせようとせず、煙が出たことを確認したら、必要に応じて香炉を移動させる。
この段階で、部屋に軽く煙を回したり、衣服や布に香りを移したりする。
焚き続けない
バフールは、長く焚き続ける香ではない。
香りが移ったと感じたら、それ以上焚く必要はない。
焦げた匂いが出始めた場合は、すでに量が多すぎるか、焚く時間が長すぎる。
慣れないうちは、「少なすぎる」と感じるくらいがちょうどいい。
換気について
日本の住環境では、必ず換気を意識する。
窓を少し開ける、換気扇を回すなど、煙が滞留しない状態を作る。
煙を閉じ込める必要はない。
香りは、すでに移っている。
焚いたあとの時間
焚き終えたあとは、そのまま過ごして構わない。
香りは衣服や布に残り、人の動きや体温とともに、ゆっくりと立ち上がる。
バフールは、焚いている時間よりも、焚いたあとの時間と付き合う香である。
補遺
- 香らない気がするとき
香りはすでに衣服や布に移っており、
自分の鼻が先に慣れているだけであることが多い。 - 焦げた匂いがしたとき
量が多すぎるか、炭の温度が高すぎる可能性がある。 - 頻繁に使ってもよいのか
毎日である必要はないが、特別な日だけの香でもない。


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